射j法八節は行射の際の、型であり、射位において矢を射る動作の流れを説明したものである。一つ一つの動作は関連しており、息会いによって運行される。『弓道教本第1巻』に準じて紹介し、若干のコメントを加えることとする。尚、『弓道教本第1巻』および、『KYUDO
MANUAL Volume Ⅰ』から引用転載(藍色)させていただいている。
第七 離れ(はなれ)
「会」が完成されると「離れ」が生ずる。「離れ」は発射である。すなわち体の中筋から左右に開くように伸張し、気合の発動とともに矢が離れていく状態をいう。「会」と「離れ」は、「会者定離」という仏教後から転用されたといわれるように不離一体のもので、会では力がまとまり、充実して、一本の矢に移され、「離れ」を生ずるのである。したがって、「離れ」は自然の離れでなくてはならない。離すのではなく、離されるのでもない。これをたとえていえば、葉末にたまった雨露が自然に地に落ちる-すなわち、機が熟して自然に離れるものでなければならない。
(7)Hanare-Release
When the conditions of the full draw have been fulfilled, the release will
be its result. The release (Hanare), then, is the "uttering" of the shooting. In other words, this
is the condition of the arrow being released together with the motion of
forcused spiritual energy (Kiai) by expanding to open up to the left and right from the centre of the
chest.
The terms Kai and Hanare are said to be derived from the Buddhist expression, "Esha-Jori; meeting is departure," so they shoud be understood as one inseparable
unity. Which is to say, at Kai (meeting), power is brought to its conclusion - its fulfillment and transferred
to an arrow, from which Hanare (departure) is produced. Consequently, Hnare must be a natural release.
「離れ」は軽妙な離れが良しとされ、気力の充実と気合の発動により内面的な爆発力によって生じるという、しかし「発」が見えるようではいけない。射手の心理としては、離れたのかどうかも分らないうちに「離れ」はおこっているのであって、気合の発動といっても気合とともにえいやっと離すのではない。では、離れに気がつかないのかというとそうではなく、体の各所が納まりながら伸び合ってゆくと、「離れ」がくる瞬間に、すっと胸から腹に落ちてくるものを感じることがある。少しばかり心がかるくなったような感じである。「離れ」が教えてくれるのであろう。
「離れ」は意識してつくるものではなく、まして離すものでもない。私はしたことも出来もしないが、「弽ほどき」といって弽を緩めて弦が離れやすくするのなどは下品な行為である。また、「伸合い」の意識をおろそかにして、気が抜けた離れをする初心者がいるが、これは自然の離れとは言えない。「詰合い」をしっかりし伸び合っていけば、「伸合い」は最後まで射手のものであり、その結果として「離れ」が生じるのである。弓に「離れ」をとられてはいけない。初心者のうちは、残心を思い描きながら決まった位置に弓手や馬手が飛ぶように「離れ」を練習すると次第に意識しないでも馬手は飛ぶようになる。「太鼓をたたくように馬手を飛ばせ」と指導している先輩がいたが、なるほどと思った。正しい「引分け」「会」の延長に「離れ」があるのだが、体が覚えるまでは意識して練習することは大切なのである。
「離れ」で弓手や馬手が振れる人がいる。多くの初心者がそうであり、弓手では切りさげたり拳何個分も背中のほうに振ったり、突き上げたりと忙しい。馬手も上に切り上げて万歳したり反対に切り下げたりと、矢筋とは違う「離れ」になっている。これはいずれも、「離れ」での胸の開きと両肩の「伸合い」に問題があることが多い。「会」での「詰合い」が正しい骨法で出来ていなければ、弓手にも馬手にも余計な力が働き、手先で離す結果となる。さらに、左肩を的方向に押すベクトルと弓手の的に押すベクトルとが重ならなければ、振れるのは当たり前である。私は、左肩と弓手と的を一直線上に置くようにしている。こうすればベクトルは一致し弓手が振れることは無く、弓も手の内の中で素直に入って来て弓返りも軽くなる。
馬手もまた違う方向に伸ばすから「離れ」が散ることになる。馬手肘はそれ自体力が入らないから、引っ張られながらたたむようにもって来るのであり、「伸合い」を作るのは右肩である。但し、弓手の肩と同一線上に右肩を置きベクトルを重ねようとしても、口割りにある矢までの厚みと高さがあるから一致することはない。これを調整するのが馬手肘の方向である。ベクトルが一致するように、腰に向けて引くのがよい。これにより、的と反対方向へ向けて二の腕の張りが効いているから、大きく肘が落ちてしまうことはなく、左右の肩の同一線上に馬手も飛ぶことになる。
矢筋に離れるというのは大変重要なことであるが、ベクトルを考慮しなければ正しい矢筋は理解できないと思う。
「大離れ」「小離れ」という言い方がある。現在の弓道指導では「大離れ」を奨励しているようだが、私が弓道を始めた頃は、「小離れ」が良しとされ、私の道場では馬手の掌を的のほうに向けるという教えもあった。正確に習うことが出来なかったが私も練習して難しさを感じていたものである。古い本には「大離れ」を初心者の離れとして紹介しているものもある。良し悪しでは無く、それぞれの思想理論により形作られているものと考え、研究の必要を感じている。
私はある例会で審判席にいらした先生から、「今の射をするように」と注意を受けたことがある。弓道を再開したての頃の話であるが、「小離れ」の影を残していた私を見て以前の私の射を覚えていてくださり指導いただけたことに大変嬉しく感激した。
「離れ」は射において最大の醍醐味である。其れまでの各節が上手に出来ていても、最後の離れで失敗することもある。「会」での「伸合い」「詰合い」の成否。心の張りなど、最後の最後まで自分と闘いその結果現れてくるのが「離れ」である。仏僧が激しい禅問答を重ねてその果てに悟りの道を見るのと似ているのかもしれない。無限への「伸合い」から「無」を生じ自然に離れるとき、「無」の中にあるのは「私」である。「離れ」を見て射手その人が見えるのはそうゆうことなのだろうと思う。恐ろしいほどに、射技と精神の鍛錬の積み重ねが大切であることを「離れ」は教えてくれるのである。
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