射j法八節は行射の際の、型であり、射位において矢を射る動作の流れを説明したものである。一つ一つの動作は関連しており、息会いによって運行される。『弓道教本第1巻』に準じて紹介し、若干のコメントを加えることとする。尚、『弓道教本第1巻』および、『KYUDO
MANUAL Volume T』から引用転載(藍色)させていただいている。
第八 残心(ざんしん)
矢の離れたあとの姿勢をいう。離れによって射は完成されたのではない。なお残されたものがある。精神でいえば「残心」、形でいえば「残身」である。「残心(残身)」は「離れ」の結果の連続であるから、「離れ」の姿勢をくずさず、気合いのこもったまま体は天地左右に伸張し、眼は矢所の着点に注いでいなければならない。「残心(残身)」は射の総決算である。体形厳然として、縦横十文字の規矩を堅持していなければならない。
(8)Zanshin-Remaining Spirrit (and Form)
The position after the arrow is released is called Zanshin. The shooting is not yet completed at the release (Hanare), as there is still something remaining. Expressed as spirit, it is the remaining spiritual energy, and expressed as form, it is the remaining body action.
As Zanshin is the continuation and expression of the release (Hanare), you should not allow this action to stop and collapse the posture, but
with the focus of spiritual energy (Kiai) actively retained within the body, expand to "heaven" and
"earth," and to the left and right, keeping the eyes turned to
the termination point of the arrow.
Zanshin is the "final settlement of accounts," in which the body form should be dignified, and the criterion which determines the vertical and horizontal cross (Tateyoko-Jumonji) is firmly maintained.
「残心」は結果の姿であるから、矢の的中には関係しないし、自分で作ることも出来ない。しかし私たちは練習で残心を鏡で確認するし、人によっては弓手や馬手の位置を直して残心を繕う。射の全てが現れる「残心」であるから、確認して反省するし、たとえ繕ってでも美しい姿を現じたいという気持ちの表れであろう。初心者の場合や練習中の確認ならば良いであろうが、癖に残って長々と残心をとっているようではいけないから注意したい。
「残心」は「残身」とも書く。射の運行によって使われた筋肉や骨の運びの結果、「離れ」の後も体には伸びようとする力が残っていて、「伸合い」が続いた姿として「残身」が生まれるのである。“はい終わりました”という射では「残身」は出来ようもない。矢の的中には関係しないと書いたが、実は、「残身」をきちんととる事を意識することは、「伸合い」「詰合い」を確認する大切な練習であり、的中に大きく関係してくるのである。
では心の「残心」とはなんであろうか。私は、無限の「伸合い」の「会」によって「離れ」を生じた際、「無」になり、その「無」の中に「私」を見つけること。「無」と同一になっている「私」を現実に引き戻すことだと考えている。
射に際し、澄ましを行い、凛然とした自分を作り用意し射場に入る。射場は宇宙であり、その射場に射手は気を送り満たしてゆく。射位にあっては、的をひとつの手がかりとしてさらに自己を中心としてどこまでも気を伸ばしてゆくこととなり、行射はその気の運行とともに行われる。「会」において無限に広がって伸びて行く気は、「離れ」の一瞬手前で「無」に同化し射手は「無」になる。このとき、「離れ」の項で書いたように、心が軽くなる瞬間を感じることがある。そして「離れ」が生じる。
射手は「無」の中で旅をする。「無」の中で漂い泳ぎ、「無」になっている「私」を見つけ、射手の心に「私」を連れ戻してくる。この「無」と同化している「私」を連れ戻すことが「残心」であると考えている。もし、「無」の中でいつまでも漂っているのだとしたらそれは、彼岸のかなたへ行ってしまうことであり、生者の行いではなくなってしまう。
私は、この連れ戻すということをとても大切な事だと考えている。私たちは多くの業に包まれて生きている。もって生まれてきた業もあれば、生活の中で自分に付けてきた業もある。それを射を通じて「無」の中に身を投じることにより浄化するのである。そして、浄化した「私」を連れ戻すことにより、現世での業を払うのである。良い射が出た時の「残心」が軽く、心が清清しいのはそうゆうことなのだろうと思っている。
「残心」は弓倒しをし物見を返して足を閉じて退場するまで続く。「息合い」とともに行われるこれらの動作は、射場に満ちた射手の気を射手自らが引き受けて退場する心持で行うとよい。射手は射場という空間の主人公である。舞台の舞い手でもある。いつまでも自分の気を射場に残してはいられないし、舞台は次の射手に渡すのがよい。道場で他の射手の方々と行射するというのは、そうゆうお互いの世界を披露しながら、拝見し楽しむことだろうし、射会を一緒に作ることだろうと思う。そこに、尊敬も和して協調する気持ちも生まれてくるのではないだろうか。
**おことわり**
分不相応であるのは承知、未熟な者でありながら「射法八節」について記させていただいた。全て、杣人が日々練習していることの中から、経験実践し、またはこうありたいと願ってチャレンジしている事を記したのであって、“正しい射法はこうだ”という気持ちで書いたものではない。素晴らしい射手の射を拝見したり、話を聞くたびに自分の修練の不足を痛感してしまう杣人である。それでもあえて記したのは、自分が何を考え目指して練習しているのかを文章という形で記録することにより確認し反省するためであり、もし、このサイトをご覧になった方からご意見をいただけるなら大変嬉しいからである。
「射法八節」の項を記すにあたって、各項の説明は『弓道教本第1巻』および、『KYUDO MANUAL Volume T』から引用転載させていただいたが、全弓連の指導によるものを基とし修練することを本旨としているからで、ご理解とお許しを願いたい。
弓道は学問ではない。射手一人一人が心と体をつかって実践する中から身に付け発見していくものである。本を読むのも良いが、道場で先生に習い練習することが最も大切であるのは言うまでもない。その意味でも、このサイトをご覧いただいた方の練習に杣人の「射法八節」が邪魔にならない事を願っている。それは杣人の望むところではない。道場で先生の教えに身を置いて練習して欲しいと思う。
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